2006年12月21日 (木)

「おへそのあな」~誕生~

Ohesonoana_1 「おへそのあな」(長谷川義史)という絵本のページをめくっていたら、不覚にも目がうるんできてしまった。

お腹の中の赤ちゃんが、お母さんのおへその穴からながめている上下さかさまの世界。お母さんとお父さんとおねえちゃんとおにいちゃんは、赤ちゃんが生まれてくることが待ち遠しくて仕方ない。お花を植えたり、禁酒したり、名前を考えたり。赤ちゃんをめぐる家族のあたたかい様子が、ほのぼのとしたユーモアをもって描かれている。

最後のシーンは、家族が寝ている部屋。お腹の中の赤ちゃんが誰にもきこえないように、つぶやく。「明日、生まれていくからね」。

私も多分このように、両親が待ちわびて、ようやく生まれた第一子だったのだろう。

今、父はアルツハイマーになってしまい、ろくに話もできないが、私を見るとにっこりと笑ってくれる。まるで赤ちゃんのように、身の回りのこともできず、会話もできない父に、確かに残っているのが、家族への温かな気持ちだ。

そして今、妹が、はじめての赤ちゃんを身ごもっている。うちの初孫だ。冬を越えて、春になったら、この世に誕生する。

父:「赤ちゃんをこうやって抱いて帰ってくるのかな」

母:「まだ、生まれてないよ」

父:「なんだ! まだ生まれてないのかよ」

こんなショートコントのような天然の会話が、実家では、毎日のように繰り返されている。

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2006年10月30日 (月)

「海辺のカフカ」とメタファー

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祝!フランツ・カフカ賞。読みそびれていた村上春樹の「海辺のカフカ」を今頃になって、読了。他のの作品より、すっきりと調和した感じがして、読みやすかった。

ストーリーはギリシャ神話の「オイディプス王」(母と交わり、父を殺す)がベース。15歳の少年と、「頭がよくない」ナカタさんの物語が交互に展開し、そして最後に交わっていく。

他の村上作品にも共通することだが、「海辺のカフカ」はとりわけ、メタファーが多く使われている。「入り口の石」「ジョニー・ウォーカー」「カラス」・・・。細部にも全体にも。そのうち、いくつかははっきりと、いくつかはぼんやりと想像が広がり、それらが重層的なハーモニーとなって広がりを感じる。

小説の中の15歳の少年は、それを説明しない。「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにはできないものだから」。「そのとおりだ。それで、ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」と、サダさん。

ただ、そのまま飴玉を口の中で転がすように、この作品を味わった。すると、読むたびに、折々に違った味がするのだ。私の中で、それが、どんな形に発酵していくかわからないけれど、確かな味わいと重みのようなものを感じる。それが心地よくて、私は、結局、よくわからないまま、村上春樹作品を読み続けてしまうのだろう。

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2006年7月25日 (火)

いまさら「太閤記」

先日、大阪城を訪れたら、豊臣秀吉の一生を描いた「からくり太閤記」が面白く、小学生に混じって、最初から最後まで全部のシーンをじーっとみていたら、あまりに時間がかかって、同行人とはぐれ、ついに館内放送で迷子のお子様風の呼び出しをかけられて、我に返ったわけだけど、私の中では、豊臣秀吉熱はさめることなく、「新史 太閤記」(新潮文庫)を読んだら、さらにハマってしまった。

お寺の小僧から、武士になり、織田信長に才能を見出されて、ついに戦国時代の天下をとる。この華やかな転身ぶりに、感動しない人はいないだろう。日本人の夢とロマンの物語、何度でも、時代劇でドラマ化されるはずだ。

その手法は、短気で一刀両断の織田信長とも、じっくりと考えて、機を待つ徳川家康とも違う。秀吉は、「泣かぬなら、泣かせてみよう、ほととぎす」で象徴されるように、押したり、ひいたり、仕掛けたり、芝居をうったり、ときに愛嬌を発揮して、あの手この手の智略を発揮し、人の気持ちに入り込み、つかみ、動かしていく。

豊臣秀吉がその才能を開花させたのは、身分や貧しい生活から脱出したいいという「飢餓感」もあったことと思う。何ももっていないから知恵・工夫・人情で勝負せねばならない。家柄に恵まれ、武士として生まれ育った余裕で、じっくりと機を待つ徳川家康とは対照的だ。

  「露と置き、露と消えぬるわが身かな。浪華(なにわ)のことは夢のまた夢」

秀吉は、辞世の句を残している。ふと生まれ、ふと消える。天下統一のことなど、はるかかなたの夢のように・・・。自分の人生を高笑いしているようなおおらかさと余裕がいいなぁ。

私は、何しろ、大阪城の「からくり太閤記」を同行人の存在を忘れて、しぶとく全部みるくらい、よくいえば粘り強く、悪く言えば、まるで融通がきかない人間なので、秀吉的なのフットワークの軽さと捨て身の姿勢と人身掌握能力というのは、憧れなのだ。家康の話読んでも、フーンって思うだけで、こんなに感動しないもん。まぁ、自分にない資質にひかれるってことですね。

しかし、豊臣秀吉が、赤楽を好み、黄金の茶室をつくったなどときくと、うーん・・・~と思ったりする。茶道の侘び、寂びの境地に、黄金の茶室というとりあわせはどうにも、おちつかないではないか。多分、家康はそんなことしないだろう。穏やかに茶をすすることができないのは、感覚的にやはり・・・。

てなあたりから、あさましき思索におぼれそうなので、終了~。

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