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2006年7月25日 (火)

いまさら「太閤記」

先日、大阪城を訪れたら、豊臣秀吉の一生を描いた「からくり太閤記」が面白く、小学生に混じって、最初から最後まで全部のシーンをじーっとみていたら、あまりに時間がかかって、同行人とはぐれ、ついに館内放送で迷子のお子様風の呼び出しをかけられて、我に返ったわけだけど、私の中では、豊臣秀吉熱はさめることなく、「新史 太閤記」(新潮文庫)を読んだら、さらにハマってしまった。

お寺の小僧から、武士になり、織田信長に才能を見出されて、ついに戦国時代の天下をとる。この華やかな転身ぶりに、感動しない人はいないだろう。日本人の夢とロマンの物語、何度でも、時代劇でドラマ化されるはずだ。

その手法は、短気で一刀両断の織田信長とも、じっくりと考えて、機を待つ徳川家康とも違う。秀吉は、「泣かぬなら、泣かせてみよう、ほととぎす」で象徴されるように、押したり、ひいたり、仕掛けたり、芝居をうったり、ときに愛嬌を発揮して、あの手この手の智略を発揮し、人の気持ちに入り込み、つかみ、動かしていく。

豊臣秀吉がその才能を開花させたのは、身分や貧しい生活から脱出したいいという「飢餓感」もあったことと思う。何ももっていないから知恵・工夫・人情で勝負せねばならない。家柄に恵まれ、武士として生まれ育った余裕で、じっくりと機を待つ徳川家康とは対照的だ。

  「露と置き、露と消えぬるわが身かな。浪華(なにわ)のことは夢のまた夢」

秀吉は、辞世の句を残している。ふと生まれ、ふと消える。天下統一のことなど、はるかかなたの夢のように・・・。自分の人生を高笑いしているようなおおらかさと余裕がいいなぁ。

私は、何しろ、大阪城の「からくり太閤記」を同行人の存在を忘れて、しぶとく全部みるくらい、よくいえば粘り強く、悪く言えば、まるで融通がきかない人間なので、秀吉的なのフットワークの軽さと捨て身の姿勢と人身掌握能力というのは、憧れなのだ。家康の話読んでも、フーンって思うだけで、こんなに感動しないもん。まぁ、自分にない資質にひかれるってことですね。

しかし、豊臣秀吉が、赤楽を好み、黄金の茶室をつくったなどときくと、うーん・・・~と思ったりする。茶道の侘び、寂びの境地に、黄金の茶室というとりあわせはどうにも、おちつかないではないか。多分、家康はそんなことしないだろう。穏やかに茶をすすることができないのは、感覚的にやはり・・・。

てなあたりから、あさましき思索におぼれそうなので、終了~。

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